夫婦別姓導入問題

 夫婦別姓問題は、別姓推進派が提示している例外的夫婦別姓の家裁許可制案を巡る攻防が予想されています。
 この家裁許可制案は、「職業生活上の事情、祖先の祭祀の主宰その他の理由により婚姻後も各自の婚姻前の氏を称する必要がある場合において家庭裁判所の許可を得て、婚姻の際に各自の婚姻前の氏を称する」ことができるとするものですが、職業生活上で結婚前の姓を使い続けたいのであれば通称使用で十分で、通称使用が出来ない不都合は通称使用が可能になるよう関連諸法を改正しさえすれば解消されます。
 また、祖先の祭祀は姓の継承とは全く別物で、従来も跡継ぎのいなくなった実家の祖先祭祀を姓の変わった息子・娘が行っている例はいくらでもあり、これも民法の改正を要しません。さらに、家庭裁判所の許可も、その判断は裁判官個々の良識に委ねられることになり、争いがあればともかく、夫婦が同意して申請してきた以上、どんな理由であれ許可されることになるのは明白で、何の歯止めにもならないのです。
  平成8年以来、神政連は夫婦別姓制の危険性を強く訴えてきましたが、今後この問題は、国民ひとり一人に、将来の家族像を、また家族とは一体、誰と誰によって構成され、どのような役割を担うべきかを問うことになるはずです。

 夫婦別姓法案の提出断念

 自民党の「例外的に夫婦の別姓を実現させる会」(会長・笹川尭衆院議員)は4月2日、国会内で会合を開き、夫婦別姓を認める民法改正案の平成16年通常国会提出を最終的に断念することを決めた。法案には「職業生活上の事情」などがある場合、家庭裁判所の許可を得て例外的に夫婦別姓を認めることが柱で、「実現させる会」が議員立法で準備していた。この日の会合では「法案提出が支持団体の反発を招き、参院選で悪影響を与えるとの意見がある」「官邸の興味が薄い」などの意見が上がった。今後、同会は党政務調査会に別姓制度の検討チームを設けるよう要請し、次期国会での法案提出を目指して論議を深めたい考えだ。

 平成15年7月18日衆議院法務委員会 
         森隆夫参考人(お茶の水女子大学名誉教授)の意見から

 (前略)それでは、家庭教育上どういう問題が起きるのかという予想される問題について次に申し上げたいと思うんです。
  まず、家庭のきずなが細くなる、あるいは切れていくという懸念があります。それはなぜかといいますと、家族というのは一緒に生活するというところに意味があります。
  今日、日本の家族、家庭は多様化しております。多様化しておりますが、その共通性は、基礎、基本は共通でありますが、それは、一緒に生活する、人と人が一緒に生活する、これをウイズの精神といいます。旧教護院では、これをウイズの精神として、父、母にかわる教護、教母を置いたわけでありますが、今日では児童自立支援施設になっておりますけれども、ともかく、一緒に生活するというのが家族の基本であります。
  きずなというのは、共通性があって生まれるんです。ですから、別姓になりますと、物理的に一緒に生活していても、精神的には距離ができるわけであります。そういう意味で、きずなが弱くなる、そういう懸念があります。
  学校へ行きましても、お父さんは山田さんだけれども、子供は佐藤だという。では、保護者はだれだ、保護者は名前がまた違う。学校の先生も戸惑うんじゃないか、こう思います。
  そういう意味で、家庭教育の基礎であるきずなが弱まる、これは精神的な問題であります。
  第二番目は、家庭教育というのは無意識的な教育であります。生活が教育するんです。ペスタロッチも言っておりますが、生活が教育する、ダス・レーベン・ビルデット。生活が教育するということは、家庭教育には時間割りも教科書も教師もいないということであります。知らず知らずのうちに受けるのが家庭教育であります。
  親は、そういう意味では人生最初の教師なんですが、そういう自覚が今日なくて、それぞれ別姓で自分の権利だけを主張している、そういう感が私には持たれるわけであります。
  子供にとっても、小さいときは別姓ということはわかりませんから、お父さんと仲よくふろに入っているんですが、ある日突然、あっ、お父さんの姓と自分の姓が違う。そのショックはいかばかりか。きのうまで一緒にふろに入っていたお父さんとおれは違うんだ、どうして違うんだろう、これがトラウマになっていくわけであります。
  さらに、祖父母に至っては、別姓になりますと、三十年後、五十年後ですが、祖父母は全部で四通りの名前がある。どうなるんでしょう、これは。
ますます混乱していきます。三番目に、学校生活の違和感であります。
  保護者の姓と世帯主の姓と違う。学校の先生は、書類を見ると、戸籍では世帯主が違う、保護者は違う、これはどういうふうになっていくのかなと、私はわからないわけであります。子供によっては、保護者と同じ姓の子もいれば違う姓の子もいる、これが話題にならないはずがない。そうすると、そういうのが話し合いになっていじめに発展しないとも限りません。
  さらに、家庭教育というのは、民法上は親権者の共同責任であります。どちらが責任をとるのか。保護者を決める、世帯主を決める、どうなのか。これは、私は、今日の問題点の一つだと思うんです。
  私は附属小学校の校長をやっておりましたけれども、そのときに、問題があって家庭に電話をしますと、最初はお母さんが出る。お子さん元気で、いい話をしているときはお母さんが出るんですが、ところでおたくのお子さんはと、ちょっとまずい話をすると、ちょっとお待ちください、父親にかわります、そういうふうに逃げるんですね。
  だから、私は、この共同責任というのは一番悪いと思うんですが、ちょっと余計なことを言いましたが。
  さらに、四番目は、別姓によって孤独感が助長されます。要するに、一緒にの生活がないので、リースマンではないんですが、現代社会、孤独な群衆が孤独な家族になっていくわけであります。
  日本民族というのは伝統的に集団依存型の国民でありますが、これが欧米のような個人独立型になって家族が崩壊していく。
  その他気になることを申しますと、誕生後に姓を決めるのはどうやって決めるのか、将来どうするのかという問題もあります。それから、離婚した場合に、親権者に姓を変えたいと言った場合できるのかどうか。それから、誕生後すぐに離婚した場合、父が子供を引き取るといったときには父子手帳も出すのかどうか。フランスでは去年から父子手帳を出しておりますけれども。それから、お墓はどうするんだろうか。何々家というのはなくなりますから、それぞれ個人のお墓にするのか。
  時間が来たようであります。もっと申し上げたいことがあったんですが、最後に、家庭教育の原点、教育の原点は家庭教育である、よく家庭教育が大事だと言われますが、それはしつけ、しつけと言われますが、しつけの前にもっと大事なものがあるんです。それは何かといいますと、ほっとする機能、家庭がくつろぎの場、心の安らぎの場であるということであります。そういう機能が今なくなっております。別姓によって、そういう違和感、孤独感がほっとする機能を助長するのかどうかということをもう一度お考えの上、それでも別姓だとおっしゃるのなら、私はそういう考えもあって自由かと思います。

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