1.歴史の断絶
  戦後教育の根本的な問題は何か。それは、日本の戦前と戦後の歴史と文化を断絶したことである。戦前の日本の全てを暗黒の歴史として断罪し、連綿と続く国民の歴史を断ち切った。わが国に固有の歴史と風土、伝統、文化、教育を、昭和一時期の熱病のような軍国主義の時代と結びつけて斥けたのである。
  敗戦後の日本は、身の丈に合った教育の再生を図るために「本物の教育」を目指して出発したつもりだった。しかし振り返ると、連合国総司令部 GHQ仕込みの、欧米直輸入の、継ぎ接ぎだらけの借り物の古着を纏う、「まがい物の教育」だったことに気づく。
  戦後日本の教育は、GHQの指し示す図柄に合わせて、まるで塗り絵のように、ひたすら決められた色塗りに励んできたのだ。何時の間にか自国の言葉を失い、言葉まで輸入品で済ますようになっていた。
  第二次世界大戦における全面的な敗北により、明治以降の近代国家として蓄積された基盤は根こそぎ崩壊した。底をついた食糧、爆撃による主要産業の壊滅的打撃など、日本の戦後は、文字通り廃虚からの再興を余儀なくされた。そして、大日本帝国憲法に代わる日本国憲法、教育勅語に代わる教育基本法の2つが、戦後民主主義、戦後教育の主要な柱となった。
  民主主義が、戦後教育の一貫したキ-ワ-ドである。そこで、民主主義の概念が戦後教育に正しく定着したか否かが問われることになる。日本人は、「輸入元」のアメリカにおける教育政策の基礎として「祖国への誇りと忠誠心を持つアメリカ人の育成」が据えられていることに気づかなかった。もっと重大なことには、民主主義思想の根底に、国民の信託を受けた国家権力の存在が自明のこととされている事実を理解していなかった。
  うかつにも、自由には規律と責任が、権利には義務が伴うことを学ばず、民主主義の表層のみを都合よくもつまみ食いした。それに止まらず、国民の自由と権利を守る前提として存在する国家を民主主義に敵対するものと見なし、国家を否定することがあたかも真の民主主義者の証しであるかのような「特殊日本的」な考えが戦後教育の根底に何時しか定着したのである。いわゆる「戦後民主主義」に特有の発想である。
  身勝手な民主主義の理解の上にたち、戦後教育は、結果として、民主主義者を装う利己主義者を育ててきたと言わなければならない。


2.戦後教育の荒廃
  敗戦により「神州不滅」の夢破れた日本人は、着るべき衣服無く、食べるもの無く、住むべき家も無く、学ぶに教室も無い、無い無い尽くしの、掛け値なしのゼロからの出発を強いられた。まさに、「国破れて山河あり」、茫然自失、廃虚の中から立ち上がったのである。
  暮らしが立ち行くように、なり振り構わず努力を重ねて、今では世界第2位の経済大国になった。国民こぞって力を合わせ、経済再建を果たすことが出来たのは、戦後教育の役割に負うところが極めて大きい。例えそれが、アメリカからタナボタ式に与えられた制度であったにせよ、「6・3・3・4制」の実施などにより、世界に例を見ない高い水準の教育が実現したのである。戦後教育の多大な貢献なくして今日の日本経済の発展があり得なかっただろうことは誰もが認めるところである。
  しかし、経済大国への急坂を息せき切って上り詰めた頃から、戦後教育の光の部分が徐々に色褪せてきたのである。「豊かな社会の貧しい心」と称される影の部分が目立つようになってきた。
  戦後教育の荒廃を物語る事例は数多いが、ここでは、「学級崩壊」、「援助交際」、「荒れる成人式」の3つに絞り現状を見ることとする。

  (1)「学級崩壊」
  学級崩壊の原因は多様である。多くの場合、児童・生徒の側には、いじめ、不登校、校内暴力など様々な予兆がある。教師の側にも、「指導力不足」と認定されるような、崩壊学級に共通する何らかの要因が存在する。
  しかし、個別の原因は原因として、学級崩壊を招く根本の原因はハッキリしている。単純に言えば、「学校では、児童・生徒は教師の言うことを静かに聞くもの」という、かつては当たり前のこととされていた学校の規範が崩れたからである。加えて、一般社会においても、「大人と子どもは平等ではない、子どもは大人の言うことを聞け」などと主張すれば、何やら時代遅れの、封建社会の遺物を振りかざす人のように思われてしまう、どこか後ろめたさを感じさせる雰囲気が醸成されているからである。
  「個性尊重」、「子どもの主体性」、「自由のびのび教育」の美名の前では、「他人の迷惑になることは慎め」とか、「教育は本質的に強制である」、「学校は勉強する所」などという「お説教」は色褪せてくるのだ。
  つまり、戦後社会がどっぷり漬かってきた戦後民主主義の理念である「自由」、「平等」の主張が伝統的な学級運営を根底から掘り崩し始めているのである。

  (2)「援助交際」
  援助交際。早い話が「少女売春」である。「価値観の多様化」や「性の自由」の過激で未熟な主張の行き着くところが「援助交際」と言えるのではないか。
  「人に迷惑をかけなければ何をしようと自由」と当事者は言う。人としての自立や自己責任の真の意味を理解できない若者が、もっともらしい詭弁で自らのモラルの破滅を合理化しようとしているのである。戦後民主主義がもたらした「究極の到達点」とも言える現象である。

  (3)「荒れる成人式」
  成人式は、「こらえ性」を失った幼児が、幼児のままに大人になっていくプロセスを国民の前にさらけ出す恒例の儀式となった。
  暴れまわる彼等が、街頭での警察官の規制に反発して、「表現の自由」や「国家権力への抵抗」と口走っていた。思えば彼等は、「ありのままの自分を大切に、自由に振る舞うことが個性」と繰り返し教えられてきたのである。時と所を弁えることのできない幼児のような「荒れる成人式」と、その振る舞いを「若さの発散」などと持ち上げる無責任な識者の存在もまた、戦後民主主義の到達点なのである。


3.なぜ教育は荒廃したのか
  今日まで教育関係者は何事もせず、拱手傍観していた訳ではない。それどころか、その都度必要な手は打ってきた。にもかかわらず、教育は根元の所から崩れようとしているのだ。一体、どうすればいいのだろうか。
  戦後60年、これまで数々の教育改革が提唱され実施されている。明治初年の「学制」に匹敵する「6・3制」を主軸とする戦後教育改革を筆頭に、1971年(昭和46年)の中央教育審議会「46答申」、1980年代半ばの臨時教育審議会「臨教審答申」などが挙げられる。
  これらの教育改革は、その時々、わが国にとって切実な時代の要請を背景にしている。しかし、これらの改革はいずれも致命的な限界を伴うものだった。

  (1)占領体制下の教育
  敗戦の日から約7年間、昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約が発効、独立するまで、日本は、GHQによる占領体制下におかれていた。
  戦後教育の歩みを考える時、日本が敗戦国として完全に国家主権が奪われていた時期が7年に及んでいた事実を忘れてはなるまい。憲法にせよ、教育基本法にせよ、占領国軍最高司令官の指示する社会制度、法制度を受け入れることは自明のこととされており、当時の日本には選択の余地は無かった。それを50年も経った今になって、選択肢が残されていたかのように言う人がいるのは、敗戦という冷厳な事実から目を逸らすことになるだろう。
  GHQの占領統治下、わが国政府に米軍のマッカ-サ-最高司令官の意向に反した政策決定など出来る筈も無かった。マッカ-サ-の命令は憲法を超えた超法規的効力を持つ絶対的なものだった。問題なのは、日本が独立国家として主権を回復して以降のことである。

  (2)国家主権回復後の教育
  日本は、独立後も依然として、かつて占領統治下において選択した諸政策を継続した。つまり、総論では、国家の存立の基礎を国際社会の公正と信義におくと宣言しつつ、各論では、国防、外交をアメリカに全面的に依存しながら、国政の中心課題をつねに経済復興に向けるというのが一貫した姿勢だった。
  その結果、わが国には、未だに国家の根本的な在りようについてのコンセンサスが成立していない。国民は、将来の国家の座標軸をどう描くのか等の、国や社会の根幹に触れる問題については深く考え議論することを避け、問題を常に先送りし、当面する経済的利益を優先してきた。
経済至上主義国家と言われる所以である。
  戦後日本社会の総体がこのように腰が定まらず、右往左往している中で、教育政策だけが長期的見通しを持つことなど有りよう筈もなかった。自ずと、独立後の数多い教育改革案は、いずれも対症療法的な各論に止まっていた。代わり映えせず、多くは看板倒れだった。中味の乏しさを厚化粧で飾り立て、鳴り物入りでその場をしのいでいたに過ぎない。第3の教育改革と呼ばれた「臨教審答申」にしても、GHQから引き継いだ戦後社会の枠組みには手を触れず、いわば、お釈迦様の手のひらで踊る孫悟空以上のものではなかった。「教育は国家百年の計」と言われながら、戦後教育は今日に至るも、未だ百年の計を持つに至っていないのである。

  (3)求められる教育改革
  いま教育に求められているのは、日本の精神文化の伝統を継承しつつ、今日的な世界の情報を摂取して新たな時代を生き抜く力を育てることである。戦前と戦後の歴史を断ち切ったまま、時代の教育の課題に応えることなど所詮無理な話である。教育はもともと、先人の知恵の蓄積を基礎に、現代の社会が要請する多様な課題をバランスよく受け止めつつ、未来を創造する子どもたちに新たな知恵を授ける営みである。
  わが国の歴史と引き離された教育改革案は、根無し草のような部分的なものに終わらざるを得ないだろう。「学級崩壊」であれ、「援助交際」であれ、「荒れる成人式」であれ、いずれも、日本の高度経済成長達成後に表面化している。この時期は奇しくも、教育の担い手が、明治、大正、昭和初期生まれの年代から、昭和半ばから戦後生まれの年代へと世代交代した時期と重なる。
  占領政策による戦前と戦後の歴史の断絶があったにせよ、高度経済成長期を迎える頃までのおよそ30年間、明治生まれを先頭とする日本の歴史を引き継ぐ人たちが、親として教師として、教育を支えていたのである。
  考えるべきことは、これからの教育に当たる親と教師は、紛れも無く、高度経済成長期以降の日本社会で育った人たちで占められるということである。日本の歴史の歩みを事実に即して学ぶことにより、国際社会に通用する日本人をどう育てるのか、今、わが国の教育の真価が問われている。


4.日本の教育の未来
  わが国の教育は、これから子どもたちに何を伝えられるのだろうか。
  現在、「狂牛病」、「鳥インフルエンザ」、「鯉ヘルペス」など、深刻な問題が続発している。何やら日本人の食の安全・確保について、重大な警告を発しているように思える。国の統治能力が試されているのかもしれない。
  同様のことは、「教育の荒廃」についてもそっくり当てはまる。問題の本質から切り離した個別の教育改革には何程の効果も期待できない。
援助交際であれ何であれ、教育荒廃と言われる諸々の現象の投げかける意味は、日本が、このまま滅びへの道を歩むのか、それとも、誇りを取り戻して新たな道を切り開くのか、2つに1つしかないということである。
  「戦略なき国家日本」と言われ続けて久しいわが国だが、決して悲観することばかりではない。「教育は国家百年の計」の言葉をもう1度かみ締めてみたい。幕末から明治初年にかけた、長岡藩の「米百俵」の実話を思い起こしてみよう。
  長岡藩は、戊辰戦争に際して壊滅寸前の窮乏に追い込まれた。見かねた分家の藩から「米百俵」が贈られた。受け取った藩の責任者 小林虎三郎は、米の分配を求める藩士を説得し、米百俵を現金に換え、「長岡藩の明日をつくるために、藩士の精神を変えよう」と、国学と漢学を学ばせる学校をつくった。
  教育は本来、地道で献身的な営みである。日本人の心の座標軸を取り戻すために、いま何をなさねばならないか。長岡藩の故事は、現代の私たちに伝えている。50年先、100年先まで、教育が次の世代に伝えられるのは「心」である。

夫婦別姓

戦後教育の光と影

ジェンダー

教育基本法

家庭の役割

教科書問題